縫製自動機製造のパイオニア
株式会社 友縫機械

創業50年のあゆみ

YUHOは創業以来50余年変わることなく、縫製自動機の普及一筋に邁進し、
その間、様々な経済環境や業界の苦難な状況に立ち向かいながら“先見性”、“創造性”、“技術”、“経験”をエネルギーに、
いつしか世界に類の無い独自の開発力をもった、業界のフロントランナーに成長する事ができました。
そして現在も、縫製の生産現場向けた自動機の開発と製造に取り組み続けています。
ここに、YUHOの50年の歩みを振り返ります。

 1970(昭和45年)   創業者 高木昭壽、株式会社友縫機械を立ち上げ縫製自動機開発を開始
    昭和43(1968)年、高木昭壽はドイツ製業務用縫製自動機の販売を主として起業し、昭和45(1970)年に株式会社に改組し(株)友縫機械を創業、裁断面の縁かがりの自動化を行う「全自動縁かがり縫い機」の開発に着手したのが、YUHOの始まりでした。
当時、自動糸切りミシン頭部は国産では未開発だった為、ミシン頭部は独・PFAFF社、同じく独・エフカ社のミシンモーター、針コントロールモーターを搭載しました。
当時はまだ電気コントロール機材が乏しい時代で(検知センサー1つとっても、1個の大きさが6センチ角もの大きさであった)、信頼性や価格の問題もあったため、電圧や周波数等の影響を受けない米・ハンフリープロダクツ社で開発された小型エアーパイロットバルブを使用したエアー制御を採用し、全自動制御を実現しました。

 1972(昭和47年)   名古屋ミシンショーに国産初のサージング機を出展
    YUHO初の自動機「全自動縁かがり縫い機 U-7201」が同年の名古屋ミシンショーに国産初のサージング機として出展され、大変好評を博しました。
その後、「ズボン脇ポケットの飾り縫い機 U-7404」、「ダーツシーマー U-7505」、「ダーツ&ショートシーマー U-7505AB」、「ショート&エッジシーマー U-7905」等、現在のYUHO自動機の基になる自動機を次々と発表していきました。

 1977(昭和52年)   YUHO自動機初めての海外輸出
    昭和52(1977)年、海外輸出第1弾として「ダーツ&ショートシーマー U-7505AB」が韓国へ向けて出荷されました。

 1980(昭和55年)   国産の自動機で初めてコンピューターシーケンスを導入
    昭和54(1979)年頃、立石電気株式会社(現:オムロン株式会社)が国内メーカーで初めてシーケンス・コントローラ(SCY-P1型)の開発に成功した事を受けて、そのシーケンス・コントローラを用いた制御システムをいち早く考案、搭載した初の自動機「連続眠り穴かがり自動機 U-7902/BH」を発表、その後、同社のシーケンス・コントローラを搭載した自動機群を次々と発表し、昭和57(1982)年の中部日本ミシンショーにて大々的に展示され、大きな成果を挙げました。

 1970(昭和45年)   米国 COMPO社との間に現地販売に関する取引契約を結ぶ
    昭和56(1981)年、伊藤忠テクスマック株式会社(現:伊藤忠システック株式会社)の紹介で、米国・COMPO社との間に現地販売に関する契約を結び、主に「グリップシーマー U-8100」、「 シャツ衿オートステッチ U-8110AP」、「ダーツシーマー U-8101」等が米国各地に輸出されました。

 1981(昭和56年)〜 1988(昭和63年)   独・IMBケルンショーや米国・ボビンショーに初出展等、世界各国の展示会に次々と出展
    YUHOは昭和56(1981)年の香港を皮切りに、韓国、台湾、シンガポール、英国、旧ソ連、伊藤忠テクスマック株式会社を通じてスウェーデン、フィンランド、イタリア、スペイン等世界各国で開催された国際ミシンショーに次々と出展を果たし、独・IMBケルンショーや米国・ボビンショーにも度々出展を果たしました。

 1984(昭和59年)   国際アパレルマシンショー’84 ナゴヤに出展
    昭和59(1984)年、日本初の国際アパレルマシンショー「JIAM ’84 NAGOYA」が名古屋で開催され、YUHOは「グリップシーマー U-8100/54」、「ダーツシーマー U-8101/PS」、「紳士服くの字ダーツ U-8200」、「ショートシーマー U-8103/900」を出展して大変好評を博しました。

 1985(昭和60年)〜 1991(平成3年)   円高不況からバブル経済へ、そしてバブル経済の終焉
    YUHOは当時の時流に乗り、昭和63(1988)年から一気に業績が上がり、平成3(1991)年にかけて順調に最高益を伸ばしていた時期でもありました。
日経平均株価が平成2(1990)年から下落に転じたのをきっかけに、この好景気は終息していくのですが、人々がいわゆるバブル景気の崩壊を感じ始めたのは平成3(1991)年後半にかけてからと言われています。
YUHOもそれまで開催毎に出展を果たしてきた米国・ボビンショーにも平成2(1990)年を最後に撤退、平成3(1991)年をピークに急激に業績が下降していきました。

 1986(昭和61年)   ブラザー工業株式会社様向自動サージング機のOEM供給を開始
東京重機工業株式会社様向自動ダーツシーマーのOEM供給を開始
    昭和61(1986)年、ブラザー工業株式会社との間に「自動サージング機 BAS-102」のOEM生産に関する契約を結び、同年には更に東京重機工業株式会社(現:JUKI株式会社)との間に「自動ダーツシーマー ADU-332」のOEM生産に関する契約を結びました。
その後およそ8年に渡り、上記2機種合わせて600台程生産され、ヒット機種の1つとなりました。

 1988(昭和63)〜 1993(平成5年)   九州営業所の開設
    当時、九州方面の顧客のニーズに応える為にYUHOは昭和63(1988)年、福岡・久留米市に九州営業所を開設しましたが、開設直後にバブル経済の崩壊による長期的な不況期と重なり、残念ながら僅か4年余りの活動となってしまいました。

 1989(平成元年)〜 1998(平成10年)   YUHO自動機の特許・実用新案を次々と取得
    平成元(1989)年に「胸ダーツシーマーのNC制御」に関する特許を取得したのを皮切りに、平成6(1994)年に「ヒザ裏サージング」、平成10(1998)年、「シャツ剣ボロ縫い自動機」の特許を取得、平成8(1996)年に「ポケットステッチャー」、平成9(1997)年に「ナライダーツーシーマー」の実用新案を取得しました。
当時の主要機種のほとんどをリニューアルし、YUHO自動機の基礎技術を完成させる等、YUHOはこの不況下に備えるべく努力を続けていきました。

 1991(平成3年)〜 2002(平成14年)   平成不況・失われた10年
    平成3(1991)年のバブル経済の崩壊以後、平成不況と言われる長期的な不況期に入りました。
大手金融機関の破綻、多数の企業倒産や統廃合が相次ぎ、長期にわたる不景気がデフレーションを誘発してアパレル縫製業の日本国外への流出もこの時期にかけて一段と進んだとされています。
YUHOでは新商品を次々に開発・販売していく事により、この苦境下にあっても業績維持を図りました。

 1998(平成10年)   ドレスシャツ向けYUHO自動機の特許を次々と取得
    平成10(1998)年に「シャツ剣ボロ縫い自動機」及び「本格派ポケットセッター」の2機種、その後、平成27(2015)年には「シャツヨーク付け自動機」及び「カフス地縫い自動機」、「全自動前立三ッ折り縫い自動機」に関する特許を次々に取得しました。
平成30(2018)年には「ヨーク&前身 肩合せ縫い自動機」に関する特許を取得、ドレスシャツ製造における主要工程を担えるYUHO自動機が開発・発表されていきました。

 2001(平成13年)   カーテンタッセル自動折込縫い自動機の開発
    平成13(2001)年、当時市場が急激に縮小していた重衣料向け自動機頼りからの脱却を図るべく、「カーテンタッセル 自動折り込みステッチ縫い自動機 U-2200-D」シリーズを発表しました。
しかし、ファブリックタイプのタッセルの需要は限られ、期待通りの成果が得られなかった為、平成23(2011)年に生産終了に至りました。

 2003(平成15年)   海外市場へ再び進出を図る
    YUHOは一時途絶えていた海外市場へ再び進出を図るべく、主に「国際アパレル機器&繊維産業見本市(JIAM)」、「中国国際縫製設備展覧会(CISMA)」を通じて、当時新製品のドレスシャツ等軽衣料向け自動機のPRに努めました。
JIAMには毎回欠かさず出展を果たし、その時々において新製品を積極的に発表しました。
また、平成20(2008)年にJIAMがシンガポールにて開催された時にも、日本貿易振興機構(JETRO)様の助力を得て、新製品5機種を出展しました。
CISMAでは平成15(2003)年にドレスシャツ等向け自動機2機種を初出展した後にも、度々出展し、特に平成21(2009)年CISMAには大挙10機種を出展、平成23(2011)年にも5機種を出展し、YUHO製品を海外に販売できる可能性を探っていきました。

 2003(平成15年)   印 HCA社との間に現地販売に関する取引契約を結ぶ
    平成15(2003)年、インド・HARI CHAND ANAND & COMPANY社との間に現地販売に関する契約を結び、同年開催された「GARMENT TECHNOLOGY EXPO-2003」にてYUHO自動機を初めてインドの皆様にもご覧頂きました。
HCA社の尽力のおかげで、平成20(2008)年にはBOMBAY RAYON FASHIONS社より大型受注に成功し、「シャツ剣ボロ縫い自動機」及び「ステッチ地縫いヨーク付け自動機」、「眠り穴かがりフィーダー」及び「ボタン付けインデキサー」の4機種都合70台が現地に輸出され、その後も、複数回の大きな案件の受注を頂く事ができました。
平成23(2011)年開催の「GARMENT TECHNOLOGY EXPO-2011 New Delhi」にはYUHO自動機5機種を出展し、現地業界誌にも紙面を大きく割いて頂きました。

 2010(平成22年)   精力的に各種自動機の開発に努める
    平成22(2010)年頃にはドレスシャツ等軽衣料向け自動機のラインナップが出揃い、重衣料向けの自動機群とドレスシャツ等軽衣料向け自動機群の2本の大きな柱が確立していきました。

 2016(平成28年)   創業者 高木昭壽、取締役会長に就任
    平成28(2016)年、高木昭壽は取締役会長として後進に道を譲り、後任の代表職には高木晶規が就任致しました。

 2018(平成30年)   株式会社友縫機械 創業50年
    平成30(2018)年、高木昭壽が昭和43(1968)年に起業したYUHOは50年目の大きな節目を迎える事ができました。
この年は経済紙ウォール・ストリート・ジャーナル(The Wall Street Journal,WSJ)のウェブサイト上にて、YUHOの縫製自動省力機の紹介及び弊社会長 高木昭壽のインタビューが公開され、世界中より大きな反響がありました。
【動画 https://www.youtube.com/watch?v=OsSDI8wWAyQ#t=4m59s
令和2(2020)年には、株式会社化50周年を迎える事ができました。

  そして、これからのYUHO
    現在、衣料縫製工程の自動化は人権や持続可能な開発目標といった視点から注目されており、衣料縫製工程の自動化にAIやIoTの活用を研究する取り組みも始まりました。
YUHOはAIやIoT等の技術を導入することで供給の無人化を進め、各工程のフルラインナップ化に一層邁進して行きたいと考えております。